kimono beat

 いつでしたか或る雑誌で「団十郎の事を聴く座談会」といふのがあり、その会に出席してゐた或る人から、師匠の大森は正成からとつた宝剣を袋に入れず、普通に差してゐたが、さうしないとはじめから千早姫に出逢ふのを知つて持つて歩いてゐたやうだ、との説が出たことがありました。私は自分の考へで袋に入れて持つて出ますが、あれは御物を忝けなくも正成に賜はつたもので、正成戦死の後は大森の台詞にもある通り、「肌身離さず守護致しまかりある」のです。私は肌身離さずといふのは懐中に入れてゐるやうに響きますので、「寸時も離さず」といつてゐますが、そんなに大切にしてゐる御物のことですから、大森が大和錦の袋に入れて、大切に所持してゐても差支へないと心得てゐるのですが、どんなものでせうか。

 髪を撫でつけてしまふと、濡れ手拭ひで二三度顔を叩いてみて、鏡に近く顔を寄せてみたり、眉を上げてみたり、頬を撫でゝみたりして、熱心に鏡をのぞき込んでゐた妻は、縁側の藤椅子に腰を掛けて、興ありさうにこちらをみてゐる夫の顔が映つてるのをみると、につと笑つてやう/\満足したやうに鏡の傍を離れた。その顔は、「私だつてお化粧をすりあ、ちつとは可愛くなるでせう?」といひたさうに少しすまして。
「さあ/\、早くしないと遅くなるよ。」と、夫は内心その心持ちを悟つて微笑しながら、わざと急きたてた。一つ間違つてすねだしたら最後、石のやうに冷たく固くなつてしまふ悪い癖――その呪はしい一面の性質が、一体この女の何処に潜んでるんだらうと、つく/″\不思議になつて眺められるほど――いや、そんなことはもう未来永劫忘れてしまつたやうに、今夜の妻のそぶりは、馬鹿に可愛らしかつた。

 けれども、私は別にこれぞといつてこゝに書かなければならぬ事を持つてゐるのではない。毎日毎日、或は瞬間に、或はかなり長い間連續して、さまざまな思は私の心を過ぎて行く。それらが或は歌といはれるものゝ形を取る事もあれば、詩ともいふべきリズムを持つた獨語である場合もある。けれども敢てそれらを書きとめて置いて私の何になるだらう? やがては消えてゆくべき命であり、姿であるものを……私の心臓の響がはたと絶えた時、最もよくそのすべての意味を語るものは、何も書かずにのこされたこの白紙であるであらうよ! すべてを書き遺すにしてはあまりにこの思が多過ぎる……
 さらば愛も、憎も、惱も、苦もよ、今暫くが間であらうほどに、私の胸が張り裂けるまでは、お前達の棲所として、私はこの心臓を提供する。それらのものが、私のものとしてこの世にある間のしるしは、日毎夜毎に枕を傳うて我とわが耳に入る、あゝこの響である……とつとつと……